食料システム法の実効性 農業・食料ほんとうの話 第178回 鈴木宣弘氏

食料システム法の実効性

農業・食料ほんとうの話 第178回:農家のコスト高騰と価格転嫁の限界

食料システム法と農業危機の構造

外部要因の直撃
生産コスト高騰
肥料・飼料が2倍に
農家の赤字拡大
ウクライナ紛争等の影響で資材価格が暴騰。価格転嫁ができず、農家は深刻な赤字に苦しんでいる。
法の正体
単なる努力義務
強制力なき法案
実効性の欠如
コスト増を価格に反映させることを「促す」ためだけの法律。義務化されておらず、根本的解決には程遠い。
勘違いの源流
仏法の誤解釈
エガリムⅡ法の錯覚
政府の勇み足
フランスの法律を真似れば強制できると勘違いし、基本法改定の目玉として打ち出してしまった構図。
苦肉の着地点
コスト指標公表
米60kgで2万円強
値崩れ抑制の思惑
上げた旗を降ろすため、協議会を作りコスト指標を提示。2026年産米の取引価格に反映される可能性がある。
諸悪の根源
差額補填の拒絶
緊縮財政の縛り
政府の責任放棄
適正価格と消費者の許容価格のギャップを埋める財政出動を渋り、民間同士の交渉に責任を押し付けている。
農地と経済的危機のイメージ

食料システム法は「努力義務」に過ぎない

今年4月、農産物の生産コストを小売価格に適正に反映させることをめざした「食料システム法」が施行されました。ウクライナ紛争等の影響で肥料や飼料が2倍に跳ね上がるなど、 生産コスト高騰 燃料・肥料・飼料など外部依存度の高い資材価格の急激な上昇 により、農家は価格転嫁ができず赤字に苦しんできました。しかし、この法律によって農家が助かるかというと、残念ながら期待は薄いのが現実です。

肥料価格

約2倍
国際情勢の影響

飼料価格

約2倍
生産コスト急増

法的拘束力

なし
努力義務のみ

法の実効性の構造的欠陥

  • 強制力の不在: この法律は、コストが上がった分を価格交渉で反映するよう「みんなできちんと頑張ろうね」と促しているに過ぎません。
  • 努力の義務化: コスト上昇分を正確に価格に転嫁することを義務にしているのではなく、「努力すること」を義務化している点がミソです。
  • 小売の壁: 日本は小売の力が圧倒的に強いため、強制力のない協議だけで適正な価格転嫁を実現することは極めて困難です。

本質的な矛盾:生産者がコストを全て小売価格に反映できたとしても、今度は消費者がその高い食品を買えなくなるというジレンマに陥ります。当事者間の交渉だけで完結させる設計自体に無理があります。

無責任な政策の帰結

実効性のない「努力義務」を課すことで、政府は「対策を行った」というアリバイ作りを完成させました。赤字の解消を民間同士の交渉に委ねる手法は、農業の構造的破壊を放置する行政の責任放棄に他なりません。

エガリムⅡ法の誤算:基本法改定の目玉の正体

なぜこのような実効性の薄い法律が登場したのでしょうか。背景には、2024年の食料・農業・農村基本法改定の際、政府がフランスの「エガリムⅡ法」を誤解して持ち出した経緯があります。

フランスの法制

エガリムⅡ法
農家コスト反映の要請

日本政府の錯覚

価格強制
可能と誤解

実際の着地点

中途半端
強制力のない仕組み

錯覚のプロセス

  • 都合の良い誤解: 日本では、エガリムⅡ法が「生産者のコスト増を強制的に小売価格に反映できる魔法の法律」だと勘違いされました。
  • 現地の現実: 実際にフランスの状況を調査すると、上がったコストを小売段階まで完全に強制転嫁することは容易ではないことが判明しました。
  • 振り上げた拳: しかし、当初政府関係者は錯覚したまま、基本法改定の目玉として「価格転嫁を強制する仕組み」を掲げてしまっていたのです。

上げた旗の降ろしかた

打ち出した目玉政策をどう着地させるか。その結果として、生産者や流通業界の協議会を設置し、コストを調べて交渉する場を作るという方向に修正されました。食料システム法はそれを具体化するための法律であり、結果として「転嫁の努力は促すが強制力はない」という妥協の産物になったのです。

構造的欠陥の比喩:水漏れするパイプ(農業赤字)を直すために、強力な防水テープ(エガリムⅡ法の強制力)を買ってきたつもりが、ただのセロハンテープ(努力義務)だった。それに気づきながらも「とりあえずテープは貼ったので各自気をつけて水漏れを防いでください」と宣言している状態です。

既得権と責任回避の構図

強力な法規制は流通・小売業界からの反発を招きます。政治と業界の癒着を維持するため、耳障りの良い「食料システム法」という名称だけを用意し、実態を骨抜きにする手法は、日本の政策決定における典型的な責任回避モデルです。

コメのコスト指標:値崩れを防ぐ防波堤となるか

法律自体は中途半端に終わりましたが、具体的な取り組みとして、コメに関しては農林水産省が関与する枠組みで コスト指標 生産に必要な実質的経費を算出し、適正な取引価格の目安として公表する数値 が示されました。

稲作とコスト指標

公表された試算と業界の思惑

  • 対象規模: 生産の大半を占める1〜3ヘクタール規模の稲作農家を前提とした試算。
  • 指標価格: 生産者段階で「60キロあたり2万円強」という具体的な生産コストが示されました。
  • 波及効果: これが政府の備蓄米入札の予定価格に活用される見込みであり、2026年産米のJA概算金や民間業者の仕入れ米価に影響を与える可能性があります。

コスト指標

2万円強
60kgあたり

適用対象

1〜3ha
主要稲作農家

高値で仕入れた2025年産米の在庫が積み上がる中、新米の価格が暴落すれば流通業界も在庫を捌けなくなります。そのため、業界としてもこの「コスト指標」を名目にして、値崩れを抑制したいという明確な思惑が働いています。この指標の活用法にこそ、同法の副次的な存在意義が見え隠れしています。

そもそも価格転嫁では解決できない:緊縮財政の罪

コスト指標が示されたとしても、それをそのまま小売価格に転嫁することには致命的な限界があります。市場メカニズムにすべてを委ねる政策は、必然的に破綻します。

消費者と生産者のジレンマ

視点 適正とされる価格 生じる問題
生産者 60kgあたり2万円
(5kg換算 約3,000円小売)
この価格で売れなければ再生産が不可能。農業継続の絶対条件。
消費者 5kg換算 2,500円限界 実質賃金低下の中、これ以上の価格上昇は生活を直撃し購買不能に。
酪農の例 乳価交渉の成功 メーカーへの価格転嫁は実現したが、高すぎる牛乳は消費者に敬遠される。

真の解決策「差額補填」の拒否

価格転嫁が実現すれば消費者が買えなくなり、転嫁できなければ農家が潰れます。これを解決する唯一の手段は、 差額補填 生産者の適正価格と消費者の購買可能価格のギャップを、国家の財政出動によって埋める政策 です。しかし、政府は「金がもったいない」と緊縮財政を盾にこれを絶対にやらないと拒絶しています。諸悪の根源は、農業に対して予算を出さないこの縛りなのです。

解説者プロフィール

日本の農業経済と食料安全保障の最前線で警鐘を鳴らす専門家

鈴木 宣弘(すずき・のぶひろ)

東京大学大学院 特任教授。1958年三重県生まれ。東京大学農学部卒業後、農林水産省入省。農業総合研究所研究交流科長、九州大学教授などを経て、2006年から東京大学大学院教授。2024年4月から現職。食料安全保障推進財団理事長。

専門分野と主な著書

専門は農業経済学、国際貿易論。『農業消滅 農政の失敗がまねく国家存亡の危機』(平凡社新書)、『協同組合と農業経済 共生システムの経済理論』(東京大学出版会)ほか著書多数。

構造的悪弊への警告

すべてを市場の当事者間の価格転嫁に委ね、政府が財政出動を渋り民間に責任を放棄する現在の構図こそが、日本の農業を崩壊に導く最大の要因であると鈴木氏は指摘しています。

Q&A(徹底解明)

agriculture 食料システム法が施行されて、農家の赤字は解消されますか?
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残念ながら期待は薄いです。この法律は価格交渉を通じてコスト増を反映するよう促す「努力義務」にとどまり、強制力が一切ありません。小売の力が強い日本において、法的拘束力のない協議だけで農家の赤字を解消することは現実的に極めて困難です。

public なぜ政府は実効性の薄い法律を目玉にしたのですか?
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フランスのエガリムⅡ法を「価格転嫁を強制できる法律」と錯覚したためです。実際にはフランスでも小売への強制は難航しており、政府はその事実に後から気づきました。振り上げた拳を降ろすための苦肉の策として、強制力のない協議会とコスト指標の提示に落ち着いたのが真相です。

analytics コメの「コスト指標」とは何ですか?どう影響しますか?
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農水省の枠組みで示された、1〜3ヘクタール規模の稲作農家における生産コスト(60キロあたり2万円強)の試算です。これが政府の備蓄米入札の予定価格に活用されることで、2026年産米の取引価格の目安となります。流通業界にとっては、高値で仕入れた在庫の暴落を防ぐ「値崩れ抑制の防波堤」として利用される思惑も働いています。

account_balance 価格転嫁以外に農家を救う手段はないのですか?
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唯一の真の解決策は、政府による「差額補填」です。生産者が再生産できる適正価格と、消費者が生活を圧迫されずに買える限界価格の間には、埋められないギャップがあります。このギャップを財政出動で埋めるのが国家の役割ですが、政府は緊縮財政を理由に支出を拒絶し、民間に責任を押し付け続けています。これが農業危機の最大の根源です。